中国はなかなかジャーナリストを入れてくれない国で、最初に日中記者交換協定ができたのは、東京オリンピックの開催年である1964年のことである。中国側の日本の記者の常駐を認める条件として、3つ挙げている。
この条件は大きな意味を持ち、どんなことでも中国の意に沿わないことは、この条件にかかってしまう。すると反中国的と見なされて、日本のジャーナリストは活動 どんどん新聞社が追放される中で、朝日新聞はそれを免れた。同社のメディアとしての真価が問われたのは、林彪事件だった。憲法の中でも毛沢東の後継者と謳われた人物だったが、毛沢東が周恩来を重用しだしたことの焦りなどもあって、クーデターを企てたのだった。
毛沢東の移動する列車爆破計画があったが、実行犯の妻が当局に通報したため未遂に終わり、林彪はモンゴルへ逃亡を図った飛行機が墜落して死亡した。この事件について中国当局は1年ほど沈黙を守っていたが、それにしても日本の報道はあいまいで、特に朝日新聞はモンゴルの墜落事故もクーデターを示すできごとも報道せず、各メディアや世界の報道からも反動的と批判されている。
さて、日中関係を考えるとき、アメリカの存在を抜きには考えられない。そもそもアメリカが黒船で日本の開国を迫ったのも、中国との貿易を進めたいアメリカにとって、日本が鎖国しているのが不便だったからだと思う。太平洋戦争へ突入する前に日米関係が悪化したのも、日本の中国進出にアメリカが不快感を募らせたためだ。そして1972年に日中国交回復を果たすのも、その前に米中の関係正常化があったからである。1969年の佐藤・ニクソン会談では共同歩調で中国との関係正常化をすすめようとの約束があったにもかかわらず、アメリカに先を越された形となったのである。
日中国交正常化を成し遂げた立役者は周恩来である。彼がなぜ日本を重要視していたか。それは彼が日本に留学していた経験を持つことが大きいと思う。周恩来の判断で日本から戦争賠償を求めないと真っ先に明らかにしたが、その三つの理由が記録に残っている。
一つは、日華平和条約の中で蒋介石が賠償をとらないと明記させたことがある。二つめは、日本に賠償請求すると負担は日本人民にかかってくること。三つめは、賠償請求しないことが中国に日本を引き寄せることになって、台湾が孤立すると考えたこと。さらに、国交回復のとき中国が賠償を請求したら自民党内は収まらないことになると周恩来が読んで、正常化が微妙になりかねないと考えたこともあるのではと思う。当時、中国はソ連と一触即発の状態だったから、なるべく早く日本とも関係正常化を果たしたいと考えていたのではないだろうか。ただ、今から考えると、賠償しなかったがために、ODA、円借款などの援助がずるずると中国に流れ、そのまま中国から途上国への援助に流用されたり、中国の軍備強化に使われたりしたともいえる。今後、日本からの援助をどう縮小したり結末をつけたりするかは、真剣に検討していくべきことだと思う。
日中関係は今後もギクシャクしたことが起こることになろう。しかし、何かが起こる度に過剰反応しないことが重要だと思う。歴史的に見ても、親米、親台湾の首相のときは、中国との関係は冷えたものになったが、例えば池田勇人首相のときは、中国から温かいアプローチをしてきた。歴史は多少のブレはありながらも動いていくものなのである。日本としては、中国関係が好ましくないような状況のとき、事態をそれ以上悪化させないようにできるのは、結局、両国間の友人たちではないかと思う。日本に、中国に、それぞれ双方のことの外交を軸にすべきで、日本の場合は中国・ロシアを含めたアジア各国との外交関係を強めていき、欧米追従になってはならないと考える。
久保田 誠一 氏
大妻女子大学講師
昭和13年茨城県出身。
東京大学教養学部教養学科卒業。
朝日新聞ニューヨーク支局長、ヨーロッパ総局長などを歴任。
現在、大妻女子大学比較文化学部講師。
ゴルフ史研究家でもある。